8 わかば

 わかばは、生まれて初めて現代サーカスを目の当たりにした。彼らの、地元のおじさんやおばさん達のおもてなしと、夏休みのひと時を過ごしに来てこの場に溶け込むゲスト達への感謝の気持ちがパフォーマンスからしっかりと伝わってきた。東京にいるともちろん様々な、美術、文芸、音楽、演劇、映画といったありとあらゆる芸術に簡単に接することができるし、VRによって世界中のアートにあたかも目の前にいるかのような位置で見聞きすることも容易だ。ただ、演技や作品そのものだけでなく、今ここの場所でしか味わえない雰囲気という唯一性は、何物にも代えられない貴重なものだ。

この塩江温泉村でアーティストインレジデンスの現代サーカス版に出会えるとはまさかの驚きで、しばらくボーっとしていた。

「わかばちゃん、疲れたんな?」

みっちゃんに声をかけられて、ふと我に返ったわかばは、

「ううん、こういうの、”こういうの“ってしか表現できないけど、を味わったのは初めてで、ただただびっくりしてるん。とにかく楽しかった」

「それはよかった、けどほんまたまたまだったんの、行き当たりばったり。運動場でバーベキューするんはちょくちょくあるけど、そん時そん時で色々じゃわ、さっき踊ってた男の子な、この前は酔っぱろうて、これも酔っぱろうたつよっさんと掴み合いのけんかしよったん。それもパフォーマンスいうんかもしらんで、ハハハ。ほやけん、今晩のはわかばちゃんが創ったんかもの~」

そんなはずはないと思いつつも、昼下がりの夢あたりから、いや、朝寝過ごしたときからのこの一日はわかばにとって不思議な日ではある。

「そしたら、後片付けして解散の。のぶゑばあちゃんはさっき家に帰ったけん」

あっ、チラッと姿はみたものの、食べたり話したり観たりに夢中で、のぶゑばあちゃんのことを気にも留められなかった自分に気づいて、恥ずかしくなった。まるでさっきまで運動場を走り回っていた子供たちと何ら変わらない、私は子供だ。

後片付けが終わって急いでのぶゑばあちゃん家の淡い黄色の電灯が点いた玄関の前に着いた。

「えーと、、、ただいま、、、ぁ~」

今はまだ9時前のはずだが、翔とのデートが気づけば終電ギリギリでなんとか家にたどり着いた時のような後ろめたさで、声が小さい。

「はい、はい、おかえり!」

返ってくる声は柔らかく、あたたかい。

「のぶゑおばあちゃん、遅くなりました。それとお世話になりますってまだ言ってなかった。お疲れですのによろしくお願いします」

「えんやえんや、そんなん言わんでも。さっきお父さんとお母さんと電話で話したで。わかばちゃん、楽しんでるみたいやと言うといたで。それと太一おじいちゃんの明日退院も。安心してたわ。そうそう、今日も暑かったけん汗かいとるじゃろ。お風呂入ってゆっくりしまい。つよっさんが温泉の水を汲んできてくれとるけん、ええお湯じゃわ」

スーツケースから着替えを出して、言われるがままお風呂に入った。

塩江でバスを降りた時に嗅いだ匂い、それと太一おじいちゃんが毎月送ってくれていたボトルの中の水の匂いと一緒だが、濃い。湯舟のお湯は全部温泉水なのかもしれない。シャワーで汗を流して湯船に浸かると、トロンとしたお湯の柔らかさが肌に染み込んでいく感じで、嗅覚と触覚両方で心地いい。

「のぶゑおばあちゃん、お先です、ほんとにいいお湯でした。」

「そぅじゃろ、私も入るわの」

8畳間の前に縁側があってその端っこに昼間わかばがうとうとした白いソファーがあって、その傍らの青磁色のブタから蚊取り線香の煙がゆらゆら立ちのぼっている。うちわで風呂上がりの体に風を当てながら縁側に腰かけると、小学校の窓のいくつかからは光が漏れているのと県道わきの街灯の明かりがかろうじて視界の中のものの形を見せてくれる。黒色の濃い薄いで夜空、山、田んぼ、道、家、橋、湖面、木、草とかが表現されている。視覚。聴覚を意識すると、この家の裏側から聞こえてくる水が流れる音があって、コオロギの”リーリリ、リィーリリ”、他にも”リッビビビッ””ビーウーピーウー”とかの虫の音。他に何か聞こえないか耳を研ぎ澄ますがそれぐらいだ。黒を見ようとする眼と静を聞こうとする耳と戯れていると、のぶゑおばあちゃんがお風呂から上がったようだ。

「涼ずんみょったんな、もう寝たんかと思もとったわ」

「ね、のぶゑおばあちゃん、明後日、東京に帰るつもりにしてたけど、少し伸ばしてもいいかな?太市おじいちゃんが明日戻るから無理かな?」

「なんちゃかまんで、好きにおったらええし。太市っつぁんは喜ぶで、ひ孫やけんの」

「ありがとう!それじゃあ、おやすみなさい」

疲れが限界にきているものの、やはり私は子供だ。