はじめに

四国の阿讃山脈の北側、竜王山、大滝山を頂に、香東川の本流、支流をまとめながら讃岐平野中央部の扇状地に豊かな水をもたらすみなもとの地、塩江温泉村。

2027年8月、21歳になった大学4年の藤澤わかばは生まれてからようやくそこを訪れた。羽田からの飛行機が降り立った高松空港からは、古風に作られた列車風のバスに乗ると不思議な懐かしさを感じた。その乗り物は、1929年(昭和4年)から41年までこのあたりの線路の上を走っていたガソリンカーの車体を復活させたものだと、車中を案内するAIロボット車掌がアナウンスしていた。昔の線路の上を走っているかのようにわざと〝ガタンゴトン、ガタンゴトン゛と上下に揺れたり横に振れたりしながらゆっくり進んでいく。「マッチ箱」と呼ばれて親しまれたガソリンカーを復刻した小さな車体の乗り心地は乳母車のよう。ワックスで手入れしているらしい油のにおいがするこげ茶色の木製の床、座席も木製で座り心地のいい座布団が敷かれている。天井には剥げかかった薄緑色の扇風機がカランカランと回って空気を和らげる。

目的地に向かう間、窓の景色はVRモードになっているようで昭和の当時の景色をレトロ調の3Dで映し出す。運転手らしき高さ30センチほどのロボットが、古ぼったい制服と帽子をまとってフロントガラスの真ん中に居座っていて、運転しているそぶりをしながら乗客の方に顔を向けて、客層に合わせたいろんな案内や紹介を続ける。

空港から20分ほどで終着の「塩江」停留所で降りた。

、、、「あれ?このニオイは?」

わかばの嗅覚に残っている匂いが微かに風に乗って届いてくる。91歳になる曾祖父太市がまだ元気だった頃、毎月欠かさずその匂いのする水が入ったボトルが家に届いていた。その日最初に風呂に入る家族が足してから入っていた。まさに温泉という硫黄の匂いと少しとろんとしたお湯の柔らかさが疲れを癒してくれていたのを思い出した。

その匂いに誘われるように道の駅の向こうを眺めると、薄青色が混ざるグレーの岩肌の間を清流が流れている。浅瀬と淵が適当にあって大勢の子ども連れが水遊びをしている。それを横目に眺めながら、わかばはそこ一帯に漂うあの匂いが気になって、川沿いの道を川上に向かって歩いた。